愛の反対とは、憎しみではなくて無関心といったのは、
マザー・テレサと言われています。
さすがに名言です。
人への無関心が、自分勝手な世の中になっていく元になり、
それが他者への悩みの共有をなくしていくというものなのでしょう。
恐ろしいことです。
かつてのドイツでも、同じことが起きていたと言われてます。
すなわち、同じ国民である人たちが、あれは自分たちとは無縁
だと思って、関心を示さなかったというのです。
それが、結局は、巡り巡って、自分たちへときた時
戦争を止めることができなくなったというのです。
だから、愛の反対は無関心なんですね。
人への眼差しこそ、必要なんですよね。
無視されること、それは、いじめの世界のはじまりです。
大人の世界でやっていることが、子どもの世界へと伝わっていきます。
翻って、平和とは、戦争がない状態だけでなくて、
さらには、平和への想像する、心がなくてはならないもの。
止まっているだけの、平和なんてないんですよね。
平和と叫んでいるだけでは、平和は作れるものではありません。
日々、行動する中に、平和の元ができるようになる。
教育の大切さというのは、ここでわかります。
人の心に、平和の種を植えていく作業をしていかないと
人類というのは、戦争を必ず行う生き物なのですからね。
灘高校の名物教師だった、橋本武さんが、お亡くなりになった。伝説の教師として名を馳せたことで有名になってます。
その橋本先生の国語の授業は、中勘助の「銀の匙」を3年間をかけて読んでいくというものでした。
橋本武さんが言われたことばは、名言ですね。
ここに書き留めておきたいと思う。
●すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなる」としテーマの真髄に近づき問題をきちんと理解できるかどうか“学ぶ力の背骨”を生徒が物語から学ぶよう教鞭を取った。
●「スピードが大事なんじゃない。すぐ役に立つことは、すぐに役立たなくなります。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。そうやって自分で見つけたことは君たちの一生の財産になります。そのことはいつか分かりますから」
●“学ぶ力の背骨”です。国語力のあるなしで、他の教科の理解度も違う。数学でも物理でも、深く踏み込んで、テーマの神髄に近づいていこうとする力こそが国語力です。それは“生きる力”と置き換えてもいい」
国語力は、生きる力となる。
こうした思いで授業をしてくれる先生がいたらどれほどか生徒は幸福だろうか・・・。
ことばを学ぶ、感性を磨くことが、その後の人生においていかに大事なことか。
人生賛歌という本が、あるんですが、人の心の暖かさを感じることができる1冊です。
人は、貧乏や、苦悩を通して、はじめて人の心の暖かさをしることができるのかもしれません。
でも、今の世の中の世相は、まりっきり反対の方向へ行っている傾向が強そうです。
ある調査によっても、自分が投票することで世の中が変わると思うか?という調査結果でも、
そうは思わないというのが、三分の二ほども板とのことです。
皆、一様に、着るものも、食べるものも、同じように、おしなべて、平均化しているようですが、
内実は、違うのではないか?
ものすごい格差が生まれているのではないか?
自分を大切にできない人が、思えない心を持った人が、
果たして、他人へ優しさを表現できるんでしょうか?
やはり、教育しかないのかな・・と思うのですが。
遠いようで、それが一番の近道でしょう。
今の学校教育は、こころが、ないので、荒廃してしまっているようですがね。
知識重視の教育ではなくて、人としていくていくことがどういうことが、大切なのか?を徹底して、幼児教育から
教えこんでいくことです。
今の若者のなかで、そうした部分を感じることが少ないですからね。
知識なんて、意欲さえあれば、強制されずと、勉強するものです。
その意欲をわかせることを学校教育のなかで中心に据えてほしいものです。
知識が人より多かったから頭いい・・なんていうのは、過去の時代の産物ですよ・・・。
今の時代、通信革命がおきてからは、スマホで情報なんていっくらでも手に入るじゃないですか?
知識よりも、知恵の時代ですよね。
使える情報を知っている、または、情報をつかいこなせるようになること・・・・。
このことが、これからの時代の必須能力でしょう。
その前に、幼少時に、こころの大切さを教えこんでいくことが教育なんではないか?
それを、重視しないと、脳ある畜生ばかりの
冷たい・・人の、オンパレードです。
そういう意味では、この人生賛歌という本は、
何が、人間として、生きていく上で大切かを学べる本ではないか?
まだまだ、本から学べることはたくさんあります。
要は、良書を読むことです。
いい本を読むことを、体で身につけることも
たいせつな、教育の役割でしょう。
人生讃歌
いじめは、どうしたらなくすことができるのか?
社会問題ともまでなっているほど、学校でのいじめによる自死の問題は
大きな課題です。
人の心に、差別をつくって優等生的気分に浸る命歪が
ある限り、ずっと続いていくように思うんですね。
今問題になってると思うのは、学校ではいじめがなかったいうのが、あくまでも前提なんですね。
こんな不思議なことがあるはずがないんですね。
人間、間違うのは、当り前です。
その前提のもとに、教育をしていけば、いじめは、
必ずある・・とうことを見ていけば、目配り等でも違うはずです。
先生とか公務員は、無謬性というか、あってはならないといって、まちがえてはならないし、まちがえてもならない。
そういう前提で、教育をしていけば、必ず、歪が現場でおきるんですね。
いじめは、先生の罪にならないし、減点の対象とかにもなってはいけないはずです。
いじめは、どこにでも存在する。必ず・・・・ある。
そういうことがあたりまえだということで、
生徒を教えていけばいいんですよね。
少しは、冷たい教育的指導とか勉強しているより
下記の本を読んで学んだほうがいいですね。
公務員にも、責任をもたせ、応分の責任を取らせる
罰則の対象にしないと、皆、一生懸命にやらないですね。