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CPのデータで選んだデータに従ってくれる人が AIにとって替わられる

新井紀子さんというAI・人工知能の研究者が、お話されていたことが、とっても興味深かったです。

今朝、ラジオで聴いていたんですが、
数学者でありAIの研究者である新井紀子の話の中で、
将来、AIにとって替わられる人の仕事が、どういうものかがわかった。

結論的に言えば、AI並みの仕事しか出来ない人間は容赦無く仕事がなくなる。
AIにとって替わられるということですね。

AI並みの仕事とは、何か?

これへの問いを解いていくなかに、たいへん興味深いんです。

逆に言えば、このAI並みの仕事とは何かがわかります。

新井紀子さんが、言うには、AIは、文章の意味がわからないということです。

具体的な例として、
「太郎は、花子が好きなんです」

この「好き」というのがわからないということです。
なぜならば、これは、数値的データに置き換えられないのです。

コンピューターは全て数学です。

なので、こうした文章の意味を理解できないということですね。

さらに、具体的な例として、AIがわからない文章として、
「私は宮崎と、広島へ旅行へ行きます」です。

この時、AIでは、必ず「宮崎」アンド「広島」としか認識しないのだそうです。

人間では、文章の構成上とか、話し言葉でも、
文脈からでも、なんとなく、お友達の宮崎くんと広島へ旅行へ行きます・・と
理解することができるんですけどね。

 つまりは、AIが得意とする、確率とか論理とか、統計とかの分野での仕事は
AIが得意とするので、人間から仕事が奪っていくということになるということ。

今、スマホなんかで、どこどこのお店が何がおいしいのかは、検索するとわかります。
これは、検索エンジンにキャッシュされたサイトが検索した結果を情報として読んでいるだけです。

一見、知るということ、単なる知識としては知ることができます。
でも、これを利用して便利がっている人こそが、AIにとって替わられる人なんだとか。

コンピューターで大量のデータで選んだデータに、単に従ってくれる人こそが、
AIにとっての下僕となるということです。

数学者の新井紀子さんの話は、興味深いと言う以上に、
今の私には、不安のほうが大きいです。

AI(人工知能)の研究者として著名な新井先生に、今のAIの実力、そして私たちの仕事が将来、AIに、そうやって取って代わられていくのかが、教えて頂きました。

今かなり話題になっていますね。
そういえば、先日も佐藤優さんも、オススメの本として、紹介していました。

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人生の最大幸福は・・・・

人生の最大幸福は、家庭生活の円満と職業の道楽化による。

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これは、本多清六博士が言われたことばです。
なかなか含蓄に富むことばです。

人生経験を真剣に生きてきた人ならではのことばです。

 

傾聴に値することばですね。

 

以下、本多清六博士のことばです。

 

 

私の体験によれば、人生の最大幸福は、家庭生活の円満と職業の道楽化による。

職業を道楽化する方法は、ただ一つ、勉強に存する。
努力また努力のほかはない。
あらゆる職業は、あらゆる芸術と等しく、それに入るに、はじめの間こそ多少苦しみを経なければならぬ。
しかし、何人も自己の職業、自己の志向を天職と確信して、迷わず、疑わず、専心に努力するからには、
早晩必ずその仕事に面白味を生じてくるものである。

 

 

 

新版 本多静六自伝 体験八十五年

 

 

本多静六博士の自伝・体験からの一代記は、読み応えがあります。
たぶん、いちどならずとも、一生のうちに、何回読むことになるだろうか。

人生限られた時間の内にやることを、どうしても優先順位をつけてやる必要があります。
その時に、先人の残された人生観は、とっても役に立つものです。

 

 

 

 

紙に書くという行為が脳を活性化させるのか

紙に書くという行為が、脳を活性化させる・・ということが
新聞の広告欄にありました。

 

今、スマホの急速な普及のお陰で、多くの人は文字を読むことに時間を使う用になっているけど、何か違うんですね。

 

それは、考えるという行為が、極端に減っているんではないかということです。

 

スマホの普及で情報が多量に出回っているのが現状。
その中で、皆、情報を持っているけど、
使おうとする時、利用する時、さらに活用する時、
自分にあった「情報」は、どれかを読み解く力がないと、

結果的には、情報的には、溺れるということになります。

 

 

紙に書くということが減っているのは、
スマホなどで、SNSで人のコミュニケーションをとることが増えている一方で、実際に手紙を書くというのが、極端に減っているというのも現状なのでしょう。
そのために、考えてみる、思考してみるという行為が減っているようです。

 

つまりは、知っていることは、単なる「知識」でしかないんです。
それを考えるという行為を経て、はじめて「智慧」になるようになりますね。
この知識から智慧へと進まないというのが、
紙に書く行為で、多くの得るものがあるというのが、
脳の活性化でもあるということなのでしょう。

 

 

日記からスタートするのも良いかもしれません。
自分の頭で考えるというのは、単なる知識の羅列ではありません。
脳というのは、意外にもアナログ的なのかもしれませんね。

 

 

まぁ、いくら本を読んでも、ただ、読むだけでは大して意味がないのかもしれませんね。特に、スマホをはじめとして、ICTが発達した時代には、物知りはそんなに価値的ではありませんものね。

知識を知るなんて、検索を繰り返すだけである程度は、満足しますから。

 

 

でも、それをつかって、自分のしたいこと、やりたいこと、をやるにはどうすれば良いのかは、智慧なくしては無理でしょうから。

 

 

「ぼくの命は言葉とともにある」を読んで

この本の中で、著者である福島さんが、自分の好きな作家である
北方謙三さんと出会い、お会いして、言われたことばで

「(福島)先生の言葉は、鼓動ですよ」
という箇所がありました。

生きていることの証こそ、鼓動なんですね。

生きとし生けるものは、皆全て、鼓動、そう、動いているんですね。

他のモノとコミュニケーションをとって、はじめて自分というものを
知ることが出来る、生きていることがそうしないと感じることができない。

そういう事を、福島さんは言われているんですね。

盲ろうという障がいを経験しなくては想像をすら出来ないと思うのですが、
福島さんの凄さは、その困難ななかでも、生きる意味を考え、生きていることを
プラスと感じて、生きている。

多くの人へ生きることに励ましとなるようになっている。
言葉とともにあるのは、命というもの、その存在そのもの。

深く考えさせられる一冊です。

ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)

言葉は、大切にするべきであるし、
人への励ましとなるのも、やはり言葉である。

パスカルのパンセ、落語ともに、やはり言葉です。

人はことばによって、人とつながっていることを感じることができる。

おのずと、自分一人で生きていることなどできない。

人との関わりの中で、生きていくことができる。

そう感じることできれば、人へ優しくしてあげることが何より大事なこと。

ITによる個別化へ道は、ますます進化しているけど、
戻るべき原点は、やはり、人は、一人では生きていくことができない。

だから、皆、人の役に立つようにすることで、必然的に自分が存在している
意味とかが、わかるようになってくるようになる。

 

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