人は関係性の中に生きている

 

生き心地の良い町

 

岡壇さんという人の書いた本に、「生き心地の良い町」
があります。

 

日本の自殺希少地域における調査研究結果の本ですが、

次の箇所にはちょっと驚いた語句(フレーズ)があります。

 

人が生きていく上で行きにくいと感じられるのは、
その前提が、
・みんな同じ
・みんな違う
・・・・・によって分かれるというものです。

 

普通というか一般的には、みんな同じという前提の方が
生きやすいのではないか、また、みんなと同じというのが
平等・公平であるのではないか・・・と。

 

しかし、違うのです。
みんな同じ・・・から出てくるのは、表に出し難い。
同じであることに焦点があたっているから。
返って、息苦しくなる。

 

一方で、みんな違う・・という立ち位置と感覚をもっていると、
違いイコール「差」にお互いに寛容となるというのです。

 

岡檀の名言から言葉:引用

 

日本で最も自殺の少ない町
(海部町)に潜在する自殺予防因子を

見つけたくて調査を行ってきた。

 

結果、際立って強く表れている五つの特長が
自殺を抑制しているとの結論にいたった。

 

その五つは、
一、異質への寛容。
(自分と違う考え方を排除しようとしない)

 

二、人物本位の他者評価。
(肩書や容姿で判断しようとしない)

 

三、有能感。
(自分への信頼感)

 

四、弱音を吐け、適切な援助希求。
(困ったことを気軽に話せ、気軽に援助を
求められる環境)

 

五、緊密過ぎないゆるやかな絆。
(隣人とは立ち話や挨拶程度のつきあいを
保つ傾向がありどちらかといえば淡白なコミュニティ)

 

 

お互いの「差異」に寛容でいること、
困ったらその事実を表に出せということ、
そして、ゆるやかな絆ということ。

 

日本人は、よく右向け右、長いものには巻かれろ
または、権威には弱いとか言われてきました。

そこには、「個」としの自由もなかったわけです。

 

だが、岡壇さんがいう、自殺率が低い町に共通する
因を見てみると、「個」に対するゆるいつきあいであり、
寛容なのです。決して無理強いをしていない、
むしろ、その人にまかせている場面が多い。

 

人は、生きやすいのは、その「関係性」の中に
生きやすさがあるのではないか。

関係性をコミュニティーと訳してもいい。

 

 

例えば、災害にあっても皆、それぞれ違います。
被害状況そのものがまず違うでしょう。

 

さらには、その復興へのバラツキは皆「差」があります。

そのときに、みんな同じ・・・というのが前提だと、
その前提に囚われてしまって、多くが苦しむことになる。

 

そうではなくて、みんな違う・・・。
これが前提だと、受け入れる側も違って当たり前という
意識が、違っても少しもおかしくないという心がまえで
いられるというものです。

そのことを差異への寛容と言っているのではないか。

 

 

金子みすゞの「わたしと小鳥と鈴と」から

「わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。」

人は、生きる前提として、みんな違っているということです。

一人として、同じ人はいないということ。

 

 

過去の日本は、個人の自由は許されなかった。
違いを指摘され続けてきたわけで、
その差異へのこだわりが、多くの悲劇を生んできた。

 

こうならなければならない・・・という一種強迫観念
めいたものに囚われてしまったことです。

 

例えば、弱音を吐くことだって、時にはよいこと。
決して前向きではないという認識ではないことを
共通認識することが、今後必要なのです。

 

 

 

 

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